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2018.6.3 サムライ講演会

https://youtu.be/EvbvOOr9BDQ

タイトル:「「もんもん人生」で、自分のビジョンと出会う」

 

こんにちは。高畑光宏と申します。どうぞよろしくお願いいたします。(一礼)

 

<自己紹介>

私は現在都内の保育園で保育士として働きながら、子ども向けのIT教室を主宰しています。

子どもたちと、iPadでアプリやプログラミングをしたり、ロボットと遊んだり、手のひらサイズのドローンを飛ばして楽しんでいます。

 

私のニックネームは「もんもん」です。

保育園では子どもたちからもんもん先生と呼ばれています。

では、ここで、皆さんに子どもに返って頂いて、「もんもん先生!」と呼んでいただけますか?

せいの、「もんもん先生—!!」

「はーい!!」

いいですね。少しだけ緊張が解けました!

 

なんで「もんもん」なの?とよく聞かれます。それはまた、飲みの席ででもお話ししますね。

 

「もんもん」というと、心の中で、もんもんと思い悩んでいる様子が思い浮かぶかもしれませんが、今からお話しする私の人生がまさに「もんもん」と思い悩んだ人生だったんです。では、今からその話を聞いてください。

 

 ①夢中のなれるものがなかった

小学校の高学年のある日、ある思いが私の中に起こりました。

(本題なのでモードチェンジしました。着いてきてくださいね。)

「自分には趣味がない。」

その当時の私は、これはまずい、自分は人と違って変な奴だと、すごく焦ったんです。そして何か趣味を見つけなければいけないとあれこれ考えましたが、やりたい事は思い浮かびませんでした。

 

②とにかく目立ちたくなかった

中学に入ると、姉のお古で学年カラーの違う体操着を着せられたり、学生服も、学校指定のお店で買わなかったので生地が違っていて、一人だけ浮いてしまってからかわれていました。

 

それ以外にも、クラスの中では勉強ができたので「ガリ勉君」と言われてからかわれていました。

 

それが嫌で、あるテストが返された時に、「先生、ここ間違っているのが丸になってます。」と自分から言いに行って減点してもらうこともありました。

 

友達からかわれるのがとても嫌だったので、とにかく人と同じでなければいけない、「普通」でいようと思っていました。

 

③人の顔色を伺う

家庭では、父が急に怒り出すことがよくありました。

ある日、家族に行った旅行先のレストランでこんなことがありました。

 

隣のテーブルで騒いでいる子どもの親に向かって、「静かにさせろ!!子どものしつけがなってないぞ!!」と父がまくしたてたんです。

母が泣きながら止めに入り、楽しいはずの旅行が台無しになってしまいました。

 

母と姉と私は、そんな父の顔色をうかがって生活していました。母からは「お父さんが怒るようなことを言うんじゃないわよ」と常々言われていました。

 

いつも、父が急に怒り出すんじゃないかとビクビクしていた私は、「父の顔色を伺う」のと同時に、父の顔色を伺っている、その母の顔色も伺うという、お伺い二重構造な少年になっていました。

そして、自分は何をしなければいけないのかという「正解探し」をすることで、さらに自分のしたいことがわからなくなっていきました。

 

 

④消去法の選択

高校卒業後の自分の進路についても、「いい大学に入っていい会社に入るのが幸せ」と思っていました。

 

受験する大学も、理数系の科目ができないから、私立大学の文系にしよう。

文学部や教育学部は就職のつぶしがきかないので対象外、という

選択の全てが消去法でした。

受かった中で、1番偏差値の高かった早稲田大学の法学部に入学することになりました。

 

①〜④の結果の人生

合格してとてもうれしかったんですが、そもそも私は、法律を勉強したいと思っていなかったので、大学の授業は、ねむけとの戦いでした。

そして、ほどなく、私は、ほとんど大学に行かなくなってしまいました。

 

授業に全く出ていないので教授の顔さえ知らない程でした。

 

一体、何のために大学に行ったんだろう。

一生懸命、受験勉強を頑張って一流大学に合格したのに。

私の中にまた一つ、自分に対するバッテンが増えてしまいました。

 

就職活動でも、やりたい仕事がなく、またまた途方に暮れていました。

そんな時、たまたま目に止まった会社に、自分の大学の卒業生をOB訪問したところ、なぜかその人に気に入ってもらい、IT企業大手のNTTデータに、早々と内定がもらえてしまったのです。

 

早稲田大学の法学部を卒業して、NTTデータに就職するってすごくないですか?

自分でもすごいと思うんですよ。端から見たら、順風満帆の人生ですよね。

 

でも、会社も夢を持って入ったわけではなく、大学と同じで興味が持てず、やりがいを感じられない、時間の経つのが長くて長くてしようがないだけの毎日でした。

 

「なんで自分にはいつまで経っても、やりたいことが見つからないんだろう」

 

自分が何をしたいか、そして、一体、自分は何のために生まれてきて、何のために生きているのか、全然わかりませんでした。そして、誰もそんなことは教えてくれませんでした。

 

そんな生活にも限界が来ていた時、ある一冊の本と出会ったんです。その本にはこう書いてありました。

 

「全ての人には、野球のイチロー選手のように、その人が生まれてきた目的が必ずあるんです。」

 

人間には、人の役に立ちたいという共通のプログラムがあり、さらに「どんな仕事で役に立つか」という個人のプログラムがあるという話でした。

 

「自分の生まれてきた目的があるんだったら絶対知りたーーい!!!」

 

そして、そのことを知るためのセミナーがあることを知り、もう藁にもすがる思いで、セミナーを受けたんです。

 

セミナーでは、自分の親との関係や、自分の心の中に閉じ込めたものなどを見つめ直して、自分のやりたい仕事を自分自身で見つけて行きました。

 

そして、私の中から出てきたのは、今まで考えたこともないような職業でした。

 

それが、「保育士」でした。

 

システムエンジニアをしている時に、自分には人間として欠けているのもがある。そして、それを学ぶために、もっと人と直に接する仕事が必要なんじゃないかと漠然と思っていました。

 

 

とは言え、自分の中から「保育士」という仕事が出てきてびっくりしました。でも、子どもたちの笑顔に触れられる保育士という仕事をやってみたいと思いました。

  

父には「お前保育士になりたいなんて言ったこと今まで1回もなかったじゃないか!もう30歳なのにこれから保育士なんて一体どうするつもりなんだ」と呆れられました。

 

保育の専門学校の勉強は、大学とは全く違い、とても楽しいものでした。友人から保育園を紹介してもらい、保育園でのアルバイトも始め、充実した日々をスタートしました。

 

保育園でのアルバイトは、システムエンジニアの仕事とは180度違いました。

 

きらきら光る太陽の下で、子どもたちと公園に行って、芝生の上でお弁当を食べました。そこで、ある子を「高い高—い」してあげると、その子が満面の笑顔で喜んでくれました。それを見て、「この子は、すごく楽しそうだな。」とうれしくなり、自分自身もすごく楽しいと思っていることにびっくりしました。

 

「こんなに楽しくてお金がもらえる仕事があるんだ」

 

「仕事は、辛いことを我慢して頑張るもの」というイメージが一変する、まさに初めての喜びの体験でした。

 

私は、いつも人目を気にして、人とどう関わったらいいか分からず、気がつけば、いつもぽつんと一人ぼっちでした。

 

でも、そんな自分が、子どもたちとは、自然にありのままの自分で一緒にいられたんです。

 

 私は保育士という天職と出会い、生きがいをもって満足した人生を送り始めました。めでたしめでたし、ではなかったんです。

 

 

 保育園で仕事を始めてから半年ほど経った頃、私の中で新たな思いが起こりました。

「一生このまま、保育園で保育の仕事だけを続けていいのだろうか?」

 

そう「もんもん」と思い悩んだ私は、保育の専門学校を中退して、音楽療法の教室のスタッフになり、ダウン症や自閉症などの障害をもつ子どもたちと関わり始めました。

 

さらに、友人と24時間の保育施設を立ち上げ、それからもいろんなことをやりました。

 

早稲田大学の法学部を出ているのに、法律のことが全く分からない。そんな自分をリベンジするために、法律事務所の事務員をしたり、都議会議員の秘書になり、選挙で街宣車を運転したり、駅前でちらしを配りました。

 

ITに関しても、システムエンジニアに挫折したリベンジで、NTTドコモのショップで、スマートフォンを販売したり、auのスマートフォンの故障受付をしたり、spftbankのWifiの飛び込み営業をしました。

 

それ以外にも、餃子の王将で皿洗い、黒猫ヤマトの宅急便の仕分けの仕事、東京ドームや武道館でのイベント会場の設営やお客様の誘導などをやりました。

 

仕事以外にも、友人と二人でインドに行って、ヒマラヤの麓でヨガをしたり、ガンジズ河に沿って、250kmを2週間かけて歩いたりしてみたりしました。

 

「自分が生まれてきた目的」を知るために、とにかく自分の思いつくことを散々やってみました。

 

それぞれ、新しい体験はとても面白かったです。でも、しばらくすると飽きてしまう、その繰り返しでした。

 

 

「いろいろなことをやったけど、結局、自分のやりたいことは見つからない。自分は何も出来ないし、何の役に立つこともできない。もう、消えて死んでしまいたい。」

 

そんな思いが、ただただ出てくる日々を過ごしていました。

 

そんな時、一緒に保育をしてきた友人が、「また保育園で働いてみたらどう?」声をかけてくれて、私は、横浜の保育園で事務の仕事をすることになりました。

 

 

そこで私は、改めて、子どもたちの笑顔に救われました。そして、事務の仕事や保育の補助で、職場で役に立つことが出来ました。

 

どんな仕事でも、人の役に立っているけど、やっぱり自分は、子どもと関わる仕事がいいなと改めて思いました。

 

 

 そして、だんだんと元気になってきた私は、国家試験の保育士試験を受験しました。

そして、専門学校を中退してから20年。晴れて資格を取得することが出来ました。社会でいろいろな経験を積んで、人間的にも成長出来た今だからこそ、資格を取得出来たんだと思います。

 

保育士となった私は、去年は主任として、新しい保育園の立ち上げから運営に関わり、そして、今年の5月には、園長代理として保育園を引き受けるチャンスを頂きました。今は、新米の園長代理として、スタッフと協力して、子どもたちが、安全に元気に楽しく過ごせるように頑張っています!!

 

そして、今年の元旦に、子ども向けのIT教室を起業し、「もんもんラボ」という名前をつけました。

 

 

①夢中のなれるものがなかった自分

②とにかく目立ちたくなかった自分

③人の顔色を伺い、やりたいことが分からなかった自分

④消去法の人生だった自分

 

そんなだった自分が、今は、

保育園の仕事やもんもんラボに夢中になり、

自分のことをこんなにたくさんの人の前で語り、

自分のやりたいことを自分で見つけてどんどんやっているんです。

 

 

自分の生まれてきた目的であるビジョンは、自分の責任で見つけなければいけません。

 

すぐには見つからないかもしれません。でも、やり続けていれば、いつかきっと、「これだ!!」と分かる時がきます。

 

そして、そのビジョンと出会った時に、今までやってきたすべてのことが繋がるんです。無駄なことは何一つないんです。

 

今までやってきたことの全てが、ビジョンが大爆発する起爆剤になるんです。

 

 

多くの人との出会いによって、自分の道が開いて行きました。この出会いがなければ、今の自分はありません。

 

そして、今は他界している両親が、自分をずっと心配し、支えてきてくれたことに改めて感謝することができました。

 

先日、実家に行った時に子どもの頃のアルバムを久しぶりに見たんですが、そこには、子どもの自分と家族みんなが、幸せそうに笑っていました。

 

「いつ怒り出すか分からない怖い父親」は、小さい頃の記憶で、私が作り出していた虚像だったのかもしれません。

 

 

 

私は、これからも、保育園の園長代理と、「もんもんラボ」の運営に全力投球していきます。

 

そして、

 

法律に関しては、法律事務所で学んだことを生かします。不動産の国家資格の「宅建」を今年の10月に取得します。

 

そして、恋愛に関しても自信がなかった私ですが、素敵な人が現れました。その人にふさわしい男になれるよう頑張ります。

 

「もんもん」と悩んでばかりの私でしたが、今は目の前にいくつもの門が並んでいます。

 

「悶々」ではなく、門・門・門・門です。

叩いて突き進むべき道がそこから広がっていることに気づきました。

 

花のきれいな時期になりました。

花はあざやかに咲く直前、固く閉ざしたつぼみの中でエネルギーを貯めています。

 

悶々は、門・門を叩くための準備期間だったんです。

そこに気付くのにちょっと時間がかかりましたが、その分、つぼみの中のエネルギーは貯まっています。

 

人生100年、そう考えたら、きっと必要な時間だったんだと思います。

 

みなさんも、自分の「悶々」を、叩くべき門、進むべき道に必要なものだと知って、頑張って欲しいと思います。

本日は、お聞きいただいて、どうもありがとうございました。

以上

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